「認められたい」という感覚は強い

夜中に一人洗い物をしていた。

飲み会のあとだったから妻は先に寝ていた。水を飲んだコップを洗っていたときに、左手の薬指につけている指輪がコツンと当たって、気になったから外してから、コップをすすいだ。その時に、ふと帰り道を思い出す。

帰り道には、ある夫婦と指輪の話をした。その夫婦は二人とも料理はするし、洗い物もする。洗い物のときに指輪が当たると嫌、という感覚は、あの夫婦は共感してくれるだろうか。明日会社で会ったら話してみよう。

会社の他の先輩も、ワックスをつけるときに指輪を外したくなると話していたが、洗い物をするときには外したくなるのだろうか。聞いてみよう…。

 

僕は指輪を外したくなったのは結婚1週間まで。それ以降は指輪には慣れたのだが、結局洗いものをしているときにコツンと当たる感触は耐えかねて、それ以来洗い物のときには指輪を外すようになっていた。しかし、それを人に話したくなるのはなぜなのか。別に話す必要もないし、一人で感じていればいいのに……。

酔っ払っていたこともあり、少し考え込んでみた。どういう感情なのか? 思いついたのは「共感されたい」というものだった。

「ワックスをつけるときに指輪外す」という話をした先輩は、妻の弟もワックスをつけるときには外すということを覚えていた。共感された、同じ行動をしていた、ということが記憶に残っていたのだろう。

かくいう私も、指輪が洗い物をしているときに気になるという話を、妻の友人がしていたのをすぐに思い出したし、知人夫婦が共感してくれるかはとても気になった。(私の妻は外出の際にしか結婚指輪をつけないので共感はしてくれないだろう)。

共感してほしいという感情を紐解いてみると、そこには「自分と同じ感覚を持っていてほしい」=「自分を認めてほしい」「自分を許したい」という、承認欲求の感情があるように感じた。それはなんとなく恥ずかしいことのように感じたし、それを認めるのは厳しいことだが、たしかにそれしかない。

Photo by Kevin Grieve on Unsplash

承認というのは麻薬で、普段は他人と話したくなくても指輪の話で共感してもらうためなら人に積極的に話したくなるし、それを誰々に話そう…など空想できるものなのだ。結局、人の行動なんてほとんどが、自分を認めたり、許したりする行動なのだから人間というのは恥ずかしい生き物だ。この文章自体が自意識の表れだろう。

(というのを自分で自覚しているというのもそれはそれで恥ずかしい。自分で自分を許せる、認められる人というのが結局他人の共感や承認を求めずに生きれる人なのだから、そういう人にはひどく憧れるし、そういう人はどうやって他人とつながっているのか…と不思議な気持ちにもなる。

とはいえ、まあ人間なんてこんなもんだろうと思うので、明日からも適度に承認を求め、承認を求めすぎて仕事や人間関係を崩さない程度に健全に生きていきたいと思う。という日記。

この文章も、結論としては誰々にどう思われたい、どう思われたくないという見えや承認で文章の流れが変わるのだから、人間が世の中に起こすものなど何が何で何が何でないのかは不明だ…という無限ループ……)

うまく使えば自分の人生を豊かにもするし、成功にも導いてくれるであろう「認められたい」という感情は、逆に人の人生を狂わせたり、醜くさせたりもする。そのことを意識して生きていこうと思う。

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